浄土はどこに

終戦から今年で八十年が経ちました。たった八十年前に、日本のあらゆる所が爆撃によって焼き付くされ、多くの方々が命を落とされたとは、今の日本の姿から想像できるでしょうか。

今や戦争は、映像や本を通してでしか知りえないものになってきています。

それでも、清子という小さな地区において、十九名もの方が戦地にて若くして命を落とされた。

その現実を知ると、胸の奥に痛みを感じずにはいられません。戦争とはまさに、人がつくり出した地獄といっても過言ではありません。

「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土といい穢土というも土に二のへだてなし、ただ我らが心の善悪によると見えたり」

『法華経』という教えをもって、国を安らかにするという理想を掲げられた日蓮宗の開祖、日蓮聖人が遺されたお言葉です。浄土(きよい世界)と穢土(けがれた世界)は、場所の違いではなく、私たちの心の状態によって決まると述べられています。

怒りや妬みで心が曇っていれば、私たちの世界は色を失い、大地は枯れてしまいます。

でも、思いやりや優しさで心が満ちていれば、大地は潤い、空気は澄みわたり、まるで仏の世界のように感じられる。地獄も仏も、「どこかにある」のではなく、私たちの心や生き方の中に「現れる」ものと日蓮聖人は説いておられるのです。

『法華経』には、「十界互具(じっかいごぐ)」という教えがあります。

十界とは、仏さまの世界を最上として、中間が人間、最下層が地獄というように十の世界があると説きます。

そして、さらに仏の世界から地獄までの十の世界が、それぞれの心の中にあるという教えです。

つまり、仏さまの心の中にも地獄の要素があるということになります。けれども、仏さまは決して悪いことをしません。

仏さまが「地獄の心」を持っているのは、その心に染まっている人たちの気持ちを理解し、救いの手を差し伸べるためなのだそうです。

そして仏さまは、一瞬一瞬の選択において、つねに善なる行いを選び続けている。だからこそ、仏さまでいられるのです。この理論でいくのならば、私たち人間もまた、この身のままに仏さまとなれるという事がいえます。

さて、今年は『ミッション:インポッシブル』という超大作映画の最終章が公開されました。本作の終盤で、とても印象的な言葉が語られていたので、紹介させていただきます。

その人が何者であるか決めるのは、生まれではなく生き方であり、人生は選択の積み重ねである。常に最善を選べ

まさに、仏さまの教えを表してる言葉だと思いました。最善を選び続けることは難しい、最善であると思っても裏目にでることもあるかも知れない。それでも、できる限り善を選ぶ努力をする。

この作品は、当然フィクションであり娯楽映画です。しかし、映画は時として、その時代にとって必要なメッセージを発します。この言葉も、各国で争いが止まない時代だからこそ、あえて語られたメッセージだと私は感じました。

人と人がわかり合うことは、やはり簡単ではありません。しかし、誰もがそれぞれに他人だからこそ、わかり合おうと努力する。その一歩がとても大切なのだと思います。そしてその努力こそが、今いる場所を「浄土」に変えていくのでしょう。

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粋・息・生

「おれの名前は、ルパ〜ンさ〜んせ〜い♪」

あの“世紀の大泥棒”ルパン三世が、二〇二一年にアニメ化五〇周年を迎え、今年三十年ぶりに映画が公開されました(気がつけば映画の話ばかり……)。あのサル顔の怪盗は、なぜこれほど長きにわたって愛され続けているのでしょうか。私はルパンの魅力は、私利私欲だけで盗みを働かない、泥棒でありながら人情に厚い、「粋」な姿にあるのだと思います。

私も子どもの頃は、ビデオテープが擦り切れるほどルパンに夢中だった記憶があります。なかでも二〇〇〇年に放送された『ワンダラー・マネーウォーズ』でのセリフ「デジタルに勝つにはなぁ~、アナログに限るんだよ〜!」という言葉が、今になってとても心に響いてきます。

この一年程で、デジタル、とりわけAIの進化は目覚ましいものがあります。一年半ほど前、試しに噂のチャットGPTで「日蓮聖人ってどんな人?」と尋ねたことがありました。

私 :「日蓮聖人ってどんな人?」
AI:「はい。日蓮上人は、室町時代、天台宗の……(うんぬんかんぬん)」
まったく見当違いの答えが返ってきて、「もう二度と使うまい」と思ったものです。

ところが今では、驚くほど的確で正確な返答が返ってきます。写真の加工だって簡単にできます。巷では、ジブリ風の写真をAIに作ってもらうのが流行ったそうです。絵が描けなくても絵がつくれ、文章が書けなくても文章を生み出せる。私たちは記憶する必要すらなくなり、これまで汗を流して取り組んできた多くの仕事をAIが代行できる時代になってしまいました。しかし、そんな時代だからこそ、いま私たちに求められているのは「感性」なのだと思います。

先日、平安時代に描かれたと伝えられる「餓鬼草図」という仏教絵画を目にしました。

そこに描かれた鬼の姿はあまりにリアルで、「ゾゾゾ」と背筋が震える感覚を覚えました。正直に申し上げて、私は昔から美術に疎く、絵心は絶望的です。でも、その絵からは、たしかな“息吹”を感じることができました。

作者が自らの神経をすり減らし、とてつもない集中力によって描き出した人物や自然の「息遣い」。

それは、AIによるイラストからは決して感じることのできない感動でした。その瞬間、私はAIの描く絵に、どこか物足りなさを感じていたことに気づかされたのです。

「紙は植物から作られ、仏像も木から彫られます。木は本来命あるもの。だから紙や木に仏さまを著し、お題目を唱えることで、その形に魂が宿るのです」と、日蓮聖人はお手紙の中で記されています。

さあ、この“魂を宿らせる”という感覚。はたして、AIに理解できるでしょうか。

確かにAIには正確さも、速さもあります。でも、人間には「」があります。心は目には見えませんが、「心づかい」は目に見えるものです。

どんなに美しい絵が一瞬で描かれても、どれほど完璧な答えが返ってきても、そこに心が宿っていなければ、人の心を動かすことはできないでしょう。だからこそ、感性は大事なのだと思います。

では、粋な大泥棒、ルパン三世のあのセリフを思い出しましょう。

「デジタルに勝つにはなぁ~、アナログに限るんだよぉ~」

ルパンのように、粋に生きていきたいものです。もちろん、盗みはいけませんね。

餓鬼草図

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